近代の保守 前編
これまた久しぶりの更新となります。世は解散総選挙の話題で持ち切り(クリスマスなんて知らない)ですが、僕は大学卒業までに運転免許を取るという責務があり、マニュアル車の運転に四苦八苦してます。
今日のテーマは「保守が近代以降どのように変容してきたのか」ということです。バークにより日の目を見た保守主義ですが、近代以降の社会の変化により保守も変化を余儀なくされてきたのではないかなと思います。今日の記事は何かの本に書かれていたことがベースになっており、それは以前酔っぱらった時に読んだ本です。ただ何という本だったか忘れてしまった上に、中身についてもうろ覚えです。記憶を整理する意味でもそれについてまとめようと思いますが、もしこの話題について書いてある本を知っている方がいれば、ぜひ教えていただきたいです。
明治に入り日本は世界の潮流に乗るべく、必死に近代化を進めました。それは不可避的に急進性を帯びるものでした。イギリスに始まった産業革命ですが、このあたりから社会のあり方が急速に変わった気がします。皆さんご存知でしょうが、保守という思想は急進的な改革を嫌います。しかし現実は列強がどんどん国力をつけていき、この流れに乗り遅れたならばもう国際社会で影響力を持つことができず併合される恐れすらあるという状況でした。そんな中で保守派は伝統を重要視していくことと近代における改革を結びつける努力を強いられました。そこで基盤とされたのが「国家」です。
若者に対して明治から二次大戦に至るまでの日本史のイメージを聞けば、おそらく「天皇中心の世の中」「抑圧の時代」なんて意見が多そうな気がします。最近歴史を勉強し直しており若干異なるイメージを持ってはいるのですが、やはり「国家」が社会の中心に来ていることは疑いようがないはずです。
若干脱線すると、この頃の「保守」は存在の危機ともいうべき状態を迎えていました。社会は大胆な改革を必要としているがそれは保守の理念に反する。かといって何もしないことは社会をあるべき姿に保つことができないという点においてこれまた保守の理念に反する。そこで保守が採った立場は、「急進性と守旧性のバランスを取る努力をする」というものでした。
さて、国家が基盤となって伝統と改革を結びつけるとはどういうことでしょうか。これは「国家を上位の概念と捉え、下位の概念である社会を変革する」ところに要諦があります。国家が望ましい状態に維持されることを保守の本懐とすれば、社会のある一部の変革はそれに付随する比較的小さな改革(≠革命)とされます。この改革は漸進的な改革を否定しない保守とは矛盾しないという理屈が導かれました。この時に重要なのが「国家」という存在であり、これを崇めることで自らの行動が正当化される(この場合は「改革」が許容される)という特徴があります。
この自己正当化が行き過ぎた結果が二次大戦期の日本、ないしナチスドイツにつながっていると考えられます。体制派が行う改革派の抑圧(ex.自由民権運動)=守旧は正義、体制派が行う改革(ex.国家を前提とするある種の平等化:戦間期におけるいわゆる軍国主義化)は正義、といった具合に。体制派は反体制派の改革には反対しながら、自らも改革を押し進める側面を持っていました。これも無理な自己正当化であり、冷静に矛盾について指摘する人がいない以上、二次大戦において枢軸国側が敗戦したことも宜なるかな、といったところです。
ともかく、国家主義的な体制は自由主義に否定的で、鍵カッコ付きの「平等」志向の社会を生み出しました。それはあたかも社会主義のようで、国家主義体制が右なのか左なのかよくわからない状態になってしまったわけです。そして右翼・左翼の相違が消滅していき、すると先ほどの脱線につながりますが、保守が担うべき「急進性と守旧性のバランスを取る」という前提が崩れ、保守自体が成り立たなくなってしまいました。
つまり近代以降の保守とは、自由主義に親和的でなければ長続きしないという性質を持った、それ自体が非常に不安定なものと言わざるを得ません。その点当時の日本は自由主義が根付かず、結果として国家主義的になっていきました。現在先進国ではスタンダードな考えとなっている自由主義がなぜ当時否定されたのか、また他国はどのような近代を歩んでいったのかをまた次回考えたいと思います。
感謝。決意。
2014年9月7日、僕の恩師が他界しました。45歳という若さでの急逝であり、未だに信じられない思いです。
今日の記事は彼との短い付き合いを振り返りけじめをつけたいという思いから書くものであり、今まで以上に個人的な内容となっています。ですのであまり読むことをお勧めしません。
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先生との出会いは高校1年生の4月でした。新たな生活に大きな期待もなく、「彼女でもできればいいなー」くらいしか考えていない中で、世界史の教科担当であり担任の先生として知り合ったのが僕の恩師であるA先生です。
初めてしっかり話したのは夏休み前。勉強の相談に訪ねた時に志望校が東大であると伝えると、後日テキストを貸してくれました。1年生の夏休みにも関わらず、英文法最難関大レベル。苦手だって言ったのになあ。この先生、ちょっと変だけど面白い。
なぜか始まってしまった受験勉強。ちょうどその頃、先生に懐いていたNくんと知り合いに。そして1年生の終わり頃から、Nくんと一緒にバンド活動がスタートし、ついでに勉強会を毎日やるようになりました。
学年末テスト直前、僕のクラスはさながら動物園のようでした(一応市内でトップの進学校なのに!)。そこでNくんとともに先生のところに行き、勉強場所の相談をしました。今考えれば先生も図書室や他のクラスの教室を勧めればいいだろうに、「わかった。空き部屋を開けるから」と言って教員用の準備室を(他の先生に無断で)貸し出してくれました。そうこうしているうちに試験が終わり、2年生になりました。先生と最も親しくなった年です。
2年生になって、僕は勉強が楽しくなっていました。そこでNくんとともに、先生に勉強部屋を開けてもらえるよう交渉しにいきました。二つ返事で了承され、そこから毎日19時頃まで勉強をするようになりました。ちなみにリア充のNくんは友達付き合いが大変忙しく、いつの間にかドロップアウトしていきました。このやろう。
毎日先生と話す中で、彼はお酒や食べ歩きが好きなこと、これまでの教え子ともたまに飲みに行くことを聞きました。この頃から職員室に行って添削を受けることも増えました。彼は世界史・日本史・倫理・政治経済が担当で特に倫理が専門です。その中で教科書には載っていないエピソードなどを交えて興味深い説明をしてくれました。なにより、いつも僕の努力を認め、励ましてくれました。
受験が近づくにつれて、東大との差が埋まらなくなっていきました。それでも彼は一度も志望校を変えることを提案してきませんでした。ある時(大学に入ってからだったかもしれません)彼が言った一言が印象的でよく覚えています。
「先生の中には志望校とのギャップをはっきり示して早いうちから違う学校を強く勧める人もいるし、それも1つの指導だと思う。ただ僕は最後まで努力しようとする生徒を見て、わずかでも可能性があるならそれを信じてやりたいんだよね。センター終わってからでも出願先は変えられるし。」
結局前期の試験は不合格で、後期で地元の大学に合格しました。電話で合格を伝えた時、先生は噛み締めるように「まず良かった、良かった」と言っていました。
前期不合格の時に一番落ち込んでいたのは先生だったと思います。というよりも、責任を感じているような、申し訳なく思っているような様子でした。ただ、僕も彼に申し訳なさを感じていました。というのも、「今までの教え子で東大に行った子はいないんだ。だから寝不足くんを東大に入れたいんだよね」と言ってくれてたことがあり、彼はそのために自分の時間を削って受験のサポートをしてくれていたからです。
本当に感謝、感謝です。
合格後は1,2ヶ月に1度のペースでご飯に行きました。最近では色々なバーにも連れて行ってもらい、オトナの嗜みなんかも彼からたくさん学んでいました。二人で酔っぱらって政治の話をしたり、哲学について熱く語ったり、先生の学生時代の話を聞かせてもらったり僕の高校の時の話をしたりNくんを交えて美味しいものを食べに行ったり。時にはカクテルパーティーというイベントに連れて行ってくれる時もありました。
そんな彼が入院したと聞いたのは、今年の2月。大学の試験が終わりまた先生と飲みたいと思い連絡すると、白血病で入院していると聞かされました。頭が真っ白になるという体験は初めてでした。急いで病院の無菌室に向かうと、多少痩せ髪が抜けてしまってはいたものの、いつも通りの先生がいました。一安心と思った矢先、4月の中旬に先生と連絡がつかなくなりました。病院にお見舞いに行っても「この病棟にはいません」なんて言われて、そんなはずないだろと思いましたがどうすることもできず1ヶ月が過ぎました。
5月の下旬、先生から久しぶりに連絡が入りました。肺炎を併発し1ヶ月以上意識不明でICUで治療していたこと、ずっと寝たきりだったため立てない状態であること、何より僕の公務員試験の激励のメールが送られてきました。こんな時くらい人の心配しないで自分のことを考えてよとも思いましたがそれも彼らしいなと思いました。そして僕は順調に試験が進み、8月を迎えます。だいたいの試験が終わって結果待ちの中、先生の外泊許可が出ました。2日に久しぶりにご飯に行くこととなり、先生も歩行のためのリハビリを一生懸命行っているようでした。当日ご飯を食べる前に、彼からプレゼントを貰いました。少し前が僕の誕生日で、そのプレゼントを買ってから来たようです。久々の外出でしたがいつも通りに二人で飲んで、その日は解散しました。13日には希望官庁から内定を頂きました。真っ先に先生に報告しに行くと、本当に喜んでくれました。予め買っていてくれた内定祝いを貰ったのですが、いつももらってばかりで申し訳ないやら嬉しいやら。その後も何度か足を運びました。
9月8日、高校の同期から電話が入りました。前日に先生が亡くなったことと葬儀の日程が知らされました。まずその事実を受け止めきれませんでした。悲しいとか辛いとか、わからない。信じられない。信じたくない。
その日はバイトがありましたがずっと放心状態でした。次の日に通夜があり、その夜友人の家に泊めてもらいました。信じたくなくてウイスキーを注がれるままに飲んで、号泣して、いつの間にか布団に寝かされていました。
出棺の日、涙は見せたくないと思いました。最後くらい笑って「ありがとう」と見送った方が先生も喜ぶんじゃないかと考えていました。しかし、棺の中の先生の顔を見たとき、どうしても涙が流れてしまいました。そうして、棺は火葬場に向かっていきました。
彼はまっすぐな人でした。初めての授業の時、「やる気のない人は、授業の邪魔だけはしないでください」と言い放ち生徒を戦々恐々とさせたことから始まり、その後やる気のある子には苦労を惜しまずいくらでも協力してくれた先生。入学後すぐには生徒から敬遠されていたにもかかわらず、卒業の時には関わった生徒みんなから愛されていた先生。オシャレで、女子生徒から褒められていた先生。笑う時は恥ずかしそうに視線を落とし微笑む先生。いつも僕ら教え子の将来を気にかけ、自分よりもまず僕らのことを心配していた先生。
後悔はたくさんあります。内定祝いに貰ったのが財布だったのですが、先生は僕が高校時代からずっと同じ財布を使っていることを知っていました。しかしちょうどこの夏に財布を新調し、その財布を持ってお見舞いに行った時にお祝いをもらいました。僕は内定祝いをもらったことに驚き、またそのタイミングにも驚き、嬉しそうな顔を忘れていたんじゃないかと不安になっています。もちろん感謝の言葉は伝えようとしましたが、もっと感謝の気持ちを伝える方法があったんじゃないか、ホントに嬉しかったのだからもっとストレートに感情を出してもよかったんじゃないか、そんな思いです。これだけではなく、数えたらキリがないほどやり残したことがあります。
ただ、彼が目を閉じる前に内定の報告ができて本当によかったです。一度意識を取り戻してから8月まで、ずっと相談に乗ってもらっていました。これが恩返しになるとは思っていないけれど、先生の期待に少しは応えられたんじゃないかと思っています。
ちなみに、最後にお見舞いに行ったのは8月29日でした。その時は非常に元気で、「そろそろ秋だしもう少しで退院できると思うから、また飲みに行こう。」「先生と余市のウイスキー工場に行ってみたいです」なんて話をしていました。それからNくんの卒論が進んでいるのかということを心配していました。やっぱり最後まで人のことばっかり!
もう会えない。それじゃあ僕に何ができるんだろう。これを考えるとどうしても天国とか死後の世界があってほしいと願ってしまいます。僕はどうあがいても天国に行ける人間ではないのにね。
今、ちょっとだけでも先生に会えるなら。そんなことばかり考えています。
4月から社会に出るわけですが、その前に今後の目標ができました。法学部に入ってこれまで法律の勉強は今ひとつでした。入学前は法曹に漠然とした憧れはありましたが、授業を受けてみて司法試験の壁の厚さに尻込みしてしまっていました。
しかし、高校時代に僕は先生に、法曹になってみたいと言ったことがあります。東大に行くことは叶いませんでしたが、何年か、もしくは十何年か先に司法試験を突破します。そして先生の墓前で合格を報告したい。内定の報告と同じく、一番最初に先生に報告しにいきたい。
現在、憲・民・刑法を中心に少しずつ勉強しています。来年からはまたペースが落ちると思いますが、いつか合格することを夢見て努力を続けます。努力する生徒を見捨てない先生なんだから、ゾンビにでも幽霊にでも悪魔にでもなって、僕の努力を見ていてほしいです。
先生、お世話になりました。60年後天国で会えたなら、先生の好きなマッカランを一緒に飲みましょう。たくさん伝えたいことや聞きたいことがあるけれど、今はあと2つだけ。
ありがとう。ゆっくり休んでください。
内定辞退でちょっと修羅場った話(※完全に個人的な日記です)
先生はリベラルなんかじゃない。
久しぶりの更新となります。ここ2週間あまりの間に、いくつかの官庁から内定を頂きました。その中には第一志望先もあり、ありがたいことです。面接では皆さん「御社が第一志望です」とおっしゃるようですが、僕はウソが顔に出てしまうようなので、第一志望先以外には「第一志望は(本当の第一志望先)です」と言っていました。その上で複数の内定を頂けたのは信じられないことです。卒業までに更に勉強を重ねて、住民のために活躍できる行政職員になろうと思います。どうせ組織で働くなら、トップを目指したいです。
話は変わって、ここしばらくは大学の集中講義に出席していました。大学院の授業だったのですが、もう卒業単位は3年生の前期であらかた取り終わっていたので、去年のゼミの先生で春に他の大学に転勤になった教授の授業を聴講していました。
その方は世間ではリベラル陣営の論客として有名なのですが、ゼミ以前に彼の授業を受けている時に「この人の考え方ってどちらかというと保守に近くないか?」と思っていた訳です。それで彼のゼミに入ったのですが、その時にはみんな(総勢6人という少数精鋭!)で政治学の古典を読むというスタイルだったので彼のスタンスがいまいち分かりませんでした。
このたび彼の講義に参加するにあたって彼の著作を何冊か読んだところ(ゼミの前には読んでいませんでした。ごめんなさい)、「やっぱりこの人は進歩派なんかじゃない、保守だろう」という思いを強くしました。日本の現状を見ると、新聞なんかで保守的な政治観を持っている人が増えているという記事が目に付きます。しかしそれを詳しく読んでみると、実は現政権支持であったり自民党支持を指しているということが少なくありません。僕は現政権について支持不支持はともかく保守だと思ったことはありません。保守の根底にあるもの、それは人間の不完全性を直視するということです。その一点のみにおいてさえ、現政権は保守足りえないのです。
そんなことを考えながら、先生+昔のゼミ生でご飯に行くことになりました。彼にそのような疑問をぶつけたところ、案の定というか、場が一瞬凍りました。その後に、彼は次のようなことを言いました。
「実は私は自分をリベラルだと名乗ってはいなかったんですよ。しかし自民党政権に対して反対の姿勢をとっていた結果、様々なところから私がリベラル派であるということを言われるようになりまして。私にとって現状はユートピアではない。しかしユートピアを作ろうとすることは理性万能主義に基づいた独善だ。まずは人間が不完全な存在だということを理解し、その上で社会を少しでも良くしていけるという楽観を持って政治にできることを1つずつやっていくしかない。不完全性を理解するというのは政治学に不可欠なリアリティーだよ」
先日の記事に書いたように、政治の分析において政治観は絶対に必要なものだとは思いません。保守・革新の二分法ももはや時代遅れなのかもしれません。ただ、どの政策を支持・不支持するにしても究極的にはそれの根底に思想があることは否定できません(手続き論的批判を除く)。
少し前に本屋さんに行くと、「これが保守だ!」みたいな本がたくさん並んでいることに驚きました。「保守ってブームで熱狂する類いのものとは縁遠いんじゃ…」と思いましたが、少し興味がわき数ページ読んでみることにしました。案の定というべきか、酷い有様のものがいくつも存在しました。とりあえず、古典読んでおらんだろと。テレビで「私は保守です!」みたいなことを言う人って、なんか胡散臭いんですよね。最近自らを保守的だと考える国民が増えているというニュースに迎合してるだけじゃないのかと。っていうか、そもそも国民がみんなバークを読んでる訳がない。
nationalismやpatriotismについても考えたいところですが、なにぶんこのブログでは論文を書いている訳ではないし、久々にバンド活動を再開して睡眠不足が続く日々なので、今日はこの辺で。