イエティを探す旅に出る(仮)

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国際大会に見る、感動と同調圧力

ワールドカップが盛り上がる中、のんびり就活をやっている今日この頃。僕が志望する職業は公務員や独立行政法人が多いので、周りが内定を得てゆっくりしているのを見るのは意外と辛いものです。
僕はスポーツはかなり好きなのですが、国際試合というものではイマイチ盛り上がることができません。その理由を考えてみました。

1つ目、感動を強要するから。この手のイベントの時には決まって「○○選手、復活までの道のり」とか「家族との約束」だとかの特集番組が組まれます。これらを見るにつけサッカーならサッカー、野球なら野球で感動させてくれといつも思うのです。
テレビ番組を見ていても感じるのですが、字幕やBGMで感動の方向性を制作者がコントロールしようとする姿が見えてしまうのは興醒めです。オリンピックの時に「CMのあと、感動のフィナーレ!」というテロップが流れました。感動というのは結果でしかないはずなのに、なぜ90秒後に世界中の人間が感動することを決められないといけないのか、そう思った人は僕だけでしょうか。

2つ目、感動しない人間の排除が働くから。Twitter上では「ワールドカップ興味ない人ってなんで?」という、興味があることが当然といった意見が見られました。様々な選択肢のある現代社会においては「○○であること、○○すること」よりも「○○ではないこと、○○しないこと」のほうがよっぽど多い気がします。
例えば法律の議論においては、挙証責任が重要視されます。つまり「そんなに言うなら証拠出せ!」ということです。そしてこれは原告や検察官など、本来普通の人が負うことのない不利益を相手に強いようとする側が証明しなくてはならないことが多いものです。しかしこと同調圧力の強い集団では、「えっ、○○しないの!?どうして!?」といった論理のすり替えが頻繁に見られます。

悪魔の証明という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、無いものを無いと証明することは困難です。同様に、普段人が熱中していないサッカーの試合に興味を持っていないからといって理由を問われることは筋違いだと感じてしまいます。


しかし、このように国際的なイベントで盛り上がれる人を素敵だなとも思っています。こういった機会に自分の国のこと、他の国のことを知ろうと思ってほしいのですが、そこまではいかないようです。
だれかを強制することなく、盛り上がれる人が盛り上がれる人と盛り上がるのが一番です。次の日本代表の試合日はわかりませんが、周りに迷惑をかけない範囲で存分に楽しんでもらいたいものです。

完全に余談ですが、他の方の記事で祝日に国旗を最近の若い人の中に「旗日」の意味を「祝日」としか認識していなかったり言葉自体を知らない人がいるとわかり驚いています。
これについても強制するつもりは全くないですが、この前祝日に国旗を掲揚しているご家庭を久々に見かけ気持ちがほっこりしたことを思い出しました。