イエティを探す旅に出る(仮)

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政治観という信仰は必要なのか

ゼミの先生に「寄って立つ場所を定めることで勉強がスムーズに進むようになる」という言葉を頂いたことがあります。この言葉は、政治哲学を持って物事を眺めることで深く考察することができるという意味だと捉えています。単純なものでは保守・革新であったり右派・左派などであったり...ということです。
確かに1つの政策ごとに当否・妥当性を検討するのは面倒なことですし、一貫した哲学のもとに個別の問題に対してアプローチすることは整合性の高い価値判断を作り上げると思います。昨今の政治を見ていると、その場しのぎの姑息な舵取りが目に付くこともしばしばあります。例えば僕がずっと理解できないのは、共産党社民党が代表的ですが、税率引き上げに反対しながら社会保障を手厚くすべきと主張することです。

しかしながら、これは政治を学ぶのに不可欠とは思えません。こういった主張は主に政治観・政治思想の分野で強くなされそうですが、学問としての政治と実際の政治を混同することからこのような意見が現れるのではないかと僕は思っています。つまり、主義というものは言ってしまえば選好でしかありません。そして実際の政治はその時の権力者の理想を柱として進められます。この理想こそが政治哲学ではないでしょうか。
そして学問としての「政治学」はまた異なった特色を持っているように感じます。過去の分析が多く政策が効果的に機能しないことも少なくない政治学には、自然科学の法則に近いものがあるように思えます。ただ自然科学の場合、現象についてある程度の法則の組み合わせにより説明が可能であるのに対して、政治学はそれが難しい分野です。なぜならこれは制度・ルールだけでなく、人間の感情なども多分に含まれてくるものだからです。心理学などにより感情すらもある程度の分析は可能かもしれませんが、全ての事象にアプローチすることは現実的ではありません。
これについて僕は地震予知のようなものだと考えています。地震の原因は複合的で、しかもそれを事前に全て把握することは不可能でしょう。ただ、過去のケースを分析することによって少しは予測可能性が生まれてくる。予測できないとしても対策の1つや2つは立てられるかもしれない。それを政治の世界で引っ張っていくのが学問としての政治なのだと思います。

学問としての政治にコミットする時に自分の政治観を持つことが不可欠であるとは思えないということを補足します。
「分析」は多様なツールの中から選ばれた手法を用いて行うものです。政治観もその1つと言えるでしょう。しかしこれはあくまで手法・手段でしかありません。ですから重要なのは、「この立場からするとこういう結論が導かれる」という1つの流れであり、それを1つに固定して考えずとも分析は可能です。例えば僕の住む北海道を見ると、反オスプレイの運動の主張が「騒音問題」であったりします。それより空港の近くでの飛行機の離着陸の音の方がずっとうるさいですし、立場に固執し過ぎて自分たちの生活のためという姿勢を失っているように見えてならないのです。
自らの政治観というものは、時として論理性を破壊してしまいます。それは勉強ができるできないの問題ではなく、誰にでも起こりうるものなのです。そのことを踏まえて考えるならば、政治学者を初めとする政治学に携わる人は、物事に対して多角的にアプローチすることが大切であり、それは則ち立場に固執しないことであると思っています。