イエティを探す旅に出る(仮)

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多数決に対抗する手段はあるのか-中編

先日は多数決への対抗として民衆の抗議、連立パートナーの諫言を取り上げました。どれも効果的ではないという結論でしたが、今日はその続きです。


対抗する手段の3つ目として、与党内部の声も考えられます。例えば内閣が急進的であればそれを抑えるハト派というように、自制が働くような集団が健全とも言えます。しかし権力者は決定権を持つがゆえに権力者たり得るとも考えられるので、これは前の2つ以上に空論となりやすいでしょう。そもそも党議拘束に批判的な人もいるようですが、僕はそれは偏りのある見方だと思います。なぜなら政党とは「政治上の主義・主張を同じくする者によって組織され、その主義・主張を実現するための活動をするための活動を行う団体」(三省堂大辞林)であるため、考え方が異なるにも関わらず選挙のためだけに集団を形成することがアンフェアに感じるからです。ただし僕の尊敬するE.バークは政党について「私利私欲に基づく徒党とは区別される」と言っています。理想は政党内でもしっかりとした議論によるアウフヘーベンがなされること(これは国会についても同様)ですが、少なくとも行き過ぎた政府に苦言を呈する議員の存在というのも重要とだけまとめておきます。


4つ目はもっとも抽象的です。いわゆる立憲主義による抑制です。まず立憲主義の定義を確認しておくと、「憲法に基づいて政治を行うという原理」(三省堂大辞林)とされています。これはイマイチ理解しづらいので補足します。
憲法はあらゆる法の上位規範という前提に立ち、それは国家権力の抑制として働きます。その点から「権力者を縛る法」とも呼ばれます。この権力の抑制により国民の権利・自由を擁護しようというのが近代以降の立憲主義です。
(現代的解釈として「義務が規定されている以上権力を縛る法という見方は偏っている」という指摘もありますが、私は憲法に義務を盛り込むこと自体が失当であったのではないかと感じています。前国家的に存在する人権保護のための憲法の中に後国家的である義務を盛り込むことに違和感を覚えます。完全に余談です)
僕たちは自らの手で議員を選出し、その議員による政治が僕たちの生活に関わってきます。時には間違った判断をしてしまい衆愚政治に陥ることもありますが、それを防ぐのが立憲主義です。

しかしながら、これにも大きな落とし穴があります。1つは憲法改正です。権力を縛る法とはいえ、改正され存在しなくなればどのような効力も持ちません。現実問題として基本的人権などはさすがに改廃されることはないでしょうが。
それともう1つ挙げるとするならば、いま話題の解釈改憲です。これについては毎日ニュースなどで報じられていますが、今までも条文の意味が多義的に解釈されうるものについては政府見解が示されてきました。それも「解釈」です。もっとも、憲法は他の法律よりは解釈の幅が狭い文言になっています。首相が「最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける」という発言をしましたが、問題はあるように思います。極論ですが、政権を獲得して4年は自由なわけですから、そのうちに「自衛戦争だ!」という話になる確率は0%ではありません。また、僕が厄介だと思うのは、時の政府が解釈を自由に決められるのでは安定性を欠くため国際的な信用を失いかねないという点です。法律については裁判所の判例が解釈となっており、滅多なことがなければその解釈は変わらないため国民の信頼は担保されていると言えます。憲法解釈についてもある程度の安定性をもたらす仕組みを再構築しなくてはならないというのが僕の考えです。
解釈改憲の価値判断は置いておくとして、それが可能であるならば立憲主義という制約も課題を抱えていると言えます。


ここまで見てきたように、多数決は大きな力を持っています。今日はこの辺りで切り上げますが、次回は民主主義と多数決について考えたいと思います。