イエティを探す旅に出る(仮)

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多数決に対抗する手段はあるのか-後編

民主主義にとって多数決とはどのような意味を持つのでしょうか。よく聞くのは「多数決で決まったんだから決定でいいんじゃないの?それが民主主義でしょ?」という声です。

僕の考えでは、現状では、「多数決は民主主義の必要条件だが十分条件ではない」ものだと思います。確かに決定に際して最終的には多数決という方法を用いることは多くあります。しかし全てが多数決で決まるのであれば議会など必要ありません。討議を通して互いが歩み寄り効用を最大化していくべきであり、マジョリティが一方的に政策を決定していくことは民主主義から遠いと言わざるを得ません。

また、多数の支持を得た者が限られた期間とはいえ独裁的に政治を行うというのも同じ理由で賛成出来ません。安倍首相の「(憲法解釈の)最高の責任者は私だ。政府答弁に私が責任を持って、その上で私たちは選挙で国民の審判を受ける。」という発言や、菅元首相の「議会制民主主義は期限を切った、あるレベルの独裁を認めることだと思っている」という発言はあまりにも無教養な主張です。

選挙のときに政治家は全ての事項についてマニフェスト等に記載しているわけではありません。この点においてまず「国民の審判を受けている」と言い切ることに欺瞞を感じるのです。しかも首相は僕らが直接選挙したわけではなく、間接的に選出されたに過ぎません(このことから首相公選制を肯定しているというわけではありません)。このような状況でなぜ独裁を許されていると考えるのか、もう一度省みてもらいたいものです。

ちなみにマクファソンという政治学者は「参加民主主義」という概念を提示しました。一般的に僕らが民主主義と考えるものを「均衡的民主主義」と呼び、これに市民の直接民主制を取り入れたモデルとして認識されています。これは市民の徳としての政治参加をも重要視しており、高校のときに勉強したアリストテレスの「ポリス的動物」思想やハンナ・アレントの「活動」という概念に近いものを感じます。また、ガットマンという学者は「討議的民主主義」という概念を主張したのですが、機会があれば簡単に紹介したいと思います。

ともかく、良識を持って政治というものを考えた時に、多数決やそれによる独裁というものを無批判に受け入れることは民主主義から遠ざかってしまうと感じざるを得ません。


しかし現実では、決定において多数決が絶対的な権力を持っています。僕はこの状態の打開は難しいと思います。なぜなら、これは単純にお手軽だから。勝手に物事が決まる仕組みがあったりヒーローが全てを決めてくれるならこんなにラクなことはありません。その結果が悪ければ、また違う人を受からせればいい、第2第3のヒーローが現れるのを待とう。なんて考えが広がっているような気がします。

僕らは時間的・空間的制約から政治と一定の距離があります。わざわざ決定に参加するためには大きなコストが伴います。それ以前に若者は投票にも行かない、というニュースはよく聞くところです。確かに一票の価値は限りなくゼロに近いものです。投票に行くことは損であるとすら言えます。


ただ、僕ら「若者」は10年後、20年後には社会を支えるべき存在となっています。それを考えると、何も行動を起こさないというのはもったいない。僕らが住みやすい国・地域を作っていくことが大切です。選挙という方法によらないとしても、ゴミ拾いから始まってボランティアなど身近な運動に参加することも1つですし、ブラック企業と呼ばれる労基法を無視した会社を告発してもいい。地域のワークショップに顔を出したり、市議会議員に手紙を出すことも効果があるかもしれません。何らかの行動を起こしていくことで、少しずつ変わるかもしれない、という楽観的な姿勢で取り組んでいきたいと僕自身は考えています。


最後はあまりにも理想論過ぎて、自分でも歯が浮きそうです。客観性に乏しい文章となってしまいました。ただ、何もしないよりは何かしたほうが気分がいい。その程度の気持ちでいいのではないでしょうか。玄関先の掃除と同じです。やってもあまり変わらないけれど、やらないよりはやったほうがいいし、みんなが取り組めばちょっとは変わる可能性もあります。

単純な多数決に対抗し、少しずつでも行動を起こしていく。それが今の民主主義に足りない部分かなという主張でした。