イエティを探す旅に出る(仮)

ブログ名と内容は一切関係ありません。主に音楽、政治、哲学、お酒の話をします。

倫理と法

物事を禁止するものとしてルールが存在します。このルールは一般に「法律」「規則」といった形で定められます。これは倫理的な是非をなぞったもの(殺人罪など)であったり、構成員の都合上定められるもの(小慣れた言い方が思いつきませんが、道路の左側通行など)であったり様々です。

僕らが他人を非難する時には2つのパターンがあると思います。1つは「倫理的な是非」、もう1つは「法的な是非」に基づくということになります。
そして今日僕が指摘したいのは、これをあやふやにした他者批判です。

法治主義という言葉を聞くと、大抵の人は「法律に違反するのは悪い行為」「法律に決まっているのだから、それを破る人間は非難されるべき」と考えるようです。少なくとも僕の周りの人に聞いたところでは、Tさん以外は皆このような回答でした。
僕はこの考え方に単純には賛成できません。例えば殺人罪は、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」とあります。一見すると「殺人は良くないよ」と言っているように見えますしそのような意図はあるのでしょう。しかしこの文言には、「人を殺すのは悪いことです」とは書いていないんです。つまり価値判断は、法律の条文の埒外となっています。
法治主義は、法律に則った権力行使という意味の他には何も示していないと考えるべきです。

この問題以上に深刻なのはその逆で、「倫理的に間違っていることは法的にも問題だ」という意識・無意識です。これも1つ例を挙げましょう。
す○家のアルバイターが一斉にアルバイトを休み、そのお店が営業できなかったとします。「そんなことはけしからん」と思う人もいれば「経営者にお前たちの怒りを思い知らせてやれ」と思う人もいるでしょう。この思いは「倫理的な是非」に基づいていると言えます。
しかしこれを法律論から考えてみると、僕が調べた限りアルバイターの行為は法的に問題があるとは言えません。アルバイトは替えのきく存在であり、経営やお店の営業に対しての責任を負いません。「バイトを休むなら代わりの人を探して」という店長の指示なんかがよく取り上げられますが、これは本来店長のマネジメントの問題であって代わりにシフトに入れる人を探すのはアルバイターの仕事ではありません。
ですから、このストライキを批判する時に「違法」と言いたければ僕には見つけられなかった根拠法を持って来る必要がありますし、逆に擁護する時にも法的には「アルバイターがワンオペで苦労してるから許される」のではなく「根拠法がない」ことで対抗すべきなのだと僕は思います。
気に食わないものに対して「違法」というレッテルを貼る行為はナンセンスです。倫理的な是非と法的な是非は一致するとは限らない。そんな単純なことに気付かない人が多いことも事実です。

勘違いされたくないのは、「適法なら何をしてもいい」ということを言ってるわけではないことです。適法であっても、倫理的な問題が残るケースはあります。そういったものに対して「自分はそのやり口が気に食わない」と言うだけで十分なのです。そこで「そんな悪いことは法律が許すはずない」なんて考えるから、話が拗れるのではないでしょうか。