イエティを探す旅に出る(仮)

ブログ名と内容は一切関係ありません。主に音楽、政治、哲学、お酒の話をします。

HEROは小学生時代の僕のバイブル

ドラマ「HERO」の第2シリーズが入っているようで、僕も何話か追いかけて見てみました。

HEROといえば主人公の検事が型破りで、納得いくまで自分で捜査もやっちゃおうというキャラクターが事件を解決していくという物語です。第1話にこんなセリフが出てきます。
"真犯人を逃したとしても、無実の人だけは絶対に裁判にかけちゃダメなんです。それが俺たちの一番大切なルールなんです"

これについてある弁護士さんが反論をブログに載せていました(けっこう前ですが...)。検索しても見つけられなかったのですが要約すると、
・この言葉から逆に、「起訴されたら有罪」という論理的帰結が導かれる
・現状では裁判官もそれに従ってしまいがち(推定無罪原則が働いていない)
・起訴されたら身体拘束なんていう決まりはない。仕事しながら裁判に行けばいいじゃない
・そもそも限られた日数で検事のみが真実を解明できるという考えが驕りであって、法廷で両者の意見をぶつけた方が真実に近づく
・積極的な起訴が必要だ

こんな感じです。弁護士さんの言いたいこともわかりますが、僕はその記事を読んで違和感を覚えました。
というのも、彼が当為として主張している点がいくつかあって、どれが前提となっていてどれが変えるべきと主張されている点なのかわかりづらかったからです。
「検事はどんどん起訴すべき」「不要な身体拘束はなくすべき」はわかります。しかし彼は推定有罪の現状を前提としており、僕はここを変えていくことが先決であると考えています。
仮に検事が積極的に起訴するようになって無罪判決が出される可能性が大きくなったとしても、それは反射的にわずかな変化しか生み出さないと予想されます。これまで有罪判決ばかり出してきた裁判官がクルッと意見を変えるとは考えにくいからです。
また推定無罪の原則が守られたとしても、起訴されたという事実が広がれば会社や近所の人からの印象は非常に悪くなるでしょう。推定無罪なんだから「あの人はやってないだろう」という考えばかりになると考えるのであれば、その人は人間の思考や野次馬精神というものに対する理解が圧倒的に足りないと思います。この点から、「身体拘束をなくせばよい」という単純な話ではないと言えるでしょう。

しかし彼の主張することは最終的な司法のあり方の一つ一つとしてはどれも正しいものだと思います。現状で「どんどん起訴した方が被疑者のためになる」というものではないでしょうから、実務家の方々にはたくさんのパーツを組み合わせて(積極的な起訴もその1つ)、あるべき司法というものを作っていってもらいたいなと思います。