イエティを探す旅に出る(仮)

ブログ名と内容は一切関係ありません。主に音楽、政治、哲学、お酒の話をします。

ヤジの一件を受けてのつぶやき

今日は短めで。

都議会でのヤジ問題について、いろいろ思うことはあります。ただ、今日は1つだけ。
このツイートがタイムラインにあがってきました。なんというか、これも炎上を狙ったのかなと思いました。
「性を強調する職業に就いている以上、性差別的な発言を受けるのは仕方がない。」っていうことですよね。

倫理的な問題をひとまず切り離して考えたとしても、それはおかしい。
この文脈だと、職業としてグラドルをやっているというのだから「性」は「商品」です。それならばそれから便益を受けるためには対価を支払わねばなりません。
少し脱線しますが、僕も音楽をやっていてすぐに「なんか弾いてよ」と言われます。正直鬱陶しいですし、お金を取ってライブをしていたのにどうしてその人にはタダで聴かせなくてはならないのかと思います。
ともかく、問題を誤った形で単純化してはいけない。

この問題についてはゲイの友人が強い関心を持っていて様々に議論しそうなテーマであるため、近くまとめたいと思います。

国際大会に見る、感動と同調圧力

ワールドカップが盛り上がる中、のんびり就活をやっている今日この頃。僕が志望する職業は公務員や独立行政法人が多いので、周りが内定を得てゆっくりしているのを見るのは意外と辛いものです。
僕はスポーツはかなり好きなのですが、国際試合というものではイマイチ盛り上がることができません。その理由を考えてみました。

1つ目、感動を強要するから。この手のイベントの時には決まって「○○選手、復活までの道のり」とか「家族との約束」だとかの特集番組が組まれます。これらを見るにつけサッカーならサッカー、野球なら野球で感動させてくれといつも思うのです。
テレビ番組を見ていても感じるのですが、字幕やBGMで感動の方向性を制作者がコントロールしようとする姿が見えてしまうのは興醒めです。オリンピックの時に「CMのあと、感動のフィナーレ!」というテロップが流れました。感動というのは結果でしかないはずなのに、なぜ90秒後に世界中の人間が感動することを決められないといけないのか、そう思った人は僕だけでしょうか。

2つ目、感動しない人間の排除が働くから。Twitter上では「ワールドカップ興味ない人ってなんで?」という、興味があることが当然といった意見が見られました。様々な選択肢のある現代社会においては「○○であること、○○すること」よりも「○○ではないこと、○○しないこと」のほうがよっぽど多い気がします。
例えば法律の議論においては、挙証責任が重要視されます。つまり「そんなに言うなら証拠出せ!」ということです。そしてこれは原告や検察官など、本来普通の人が負うことのない不利益を相手に強いようとする側が証明しなくてはならないことが多いものです。しかしこと同調圧力の強い集団では、「えっ、○○しないの!?どうして!?」といった論理のすり替えが頻繁に見られます。

悪魔の証明という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、無いものを無いと証明することは困難です。同様に、普段人が熱中していないサッカーの試合に興味を持っていないからといって理由を問われることは筋違いだと感じてしまいます。


しかし、このように国際的なイベントで盛り上がれる人を素敵だなとも思っています。こういった機会に自分の国のこと、他の国のことを知ろうと思ってほしいのですが、そこまではいかないようです。
だれかを強制することなく、盛り上がれる人が盛り上がれる人と盛り上がるのが一番です。次の日本代表の試合日はわかりませんが、周りに迷惑をかけない範囲で存分に楽しんでもらいたいものです。

完全に余談ですが、他の方の記事で祝日に国旗を最近の若い人の中に「旗日」の意味を「祝日」としか認識していなかったり言葉自体を知らない人がいるとわかり驚いています。
これについても強制するつもりは全くないですが、この前祝日に国旗を掲揚しているご家庭を久々に見かけ気持ちがほっこりしたことを思い出しました。

government of the people

今日は古典に挑戦します。リンカーンの「ゲティスバーグ演説」です。これは1963年、南北戦争の中ゲティスバーグ国立戦没者墓地の開所式に際してのリンカーンの演説です。
"人民の人民による人民のための統治"というあまりに有名な一説ですが、この「人民の」という部分について違和感を持っている人は少なくないと思います。「『人民の』と『人民による』って一緒じゃないだろうか」という意見です。僕もずっと疑問でしたが、今まできちんと考えたことがありませんでした。英和辞典を片手に、少し検討してみます。


「人民の人民による人民のための統治」という一説が含まれたセンテンスは、

It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us- that(略)-that(略)-that(略)-and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.

という形になっています。「ここで我々の前に残された大仕事に身を捧げるべき者はむしろ我々である。」という文に対しthat節によりthe great taskを修飾していると解釈しました。ここから有名な一説を考えていきます。
ちなみに「(government of the people, by the people, for the people)がこの世から失われることがないこと」=the great taskという構成であることを前提とします。

おそらくbyとforについては異論なく、「人民による」「人民のため」と訳されると思います。問題はof。辞書を引くとやたらたくさんの訳が出てきます。
まず所属・所有です。ここでは「人民に属する統治」「人民が手にする統治」と訳しましょう。これは主語として人民を捉えています。よってbyと近い語義だと思われます。
次に目的関係を考えます。これはとある知人が主張していた「人民を統治(する)」という和訳です。割と説得的ですね。
最後に根源・出所。「人民から・人民由来の統治(権)」「人民からなる統治」とでも訳しましょう。これが僕の気に入った和訳です。

2つ目の訳は読んでみるとスッキリします。「人民に対する、人民による、人民のための統治」となり、民主主義における自己統治を連想させます。しかしここで考えたいのは、統治とは前近代やもっと前からずっと被治者に対するものです。言い換えれば、わざわざ明らかにする必要がないということです。

そこで3つ目の訳が登場します。「人民(の権利)に由来する、人民による、人民のための統治」とします。これは個人的にも良い出来だと思います。美しくはないですが、この和訳にはストーリーがあります。「人民が根源的に有してきた統治の権利、それを人民自ら行使することにより、人民のために統治が行われる」ことを示しているのではないでしょうか。これに則れば、人民の行使する統治の権利は根源的な権利であり、近代以降の通説的理解である自然権思想にも整合します。

有名な話ですが、このgovernmentの一説を受ける形で日本国憲法の前文が一部作られています。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

これと併せて考えると、やはり権利の由来として理解するのが自然であると感じます。


人民に由来する、人民による、人民のための統治はこの地上から失われてはならない。
これが僕の考えた和訳です。
1つ確実なのは、リンカーンの考えていたことは、究極的には本人しか知り得ないということです。その中で僕らが考えられるのは、先人の知恵を借りていかに理想的な統治を維持できるかということだと思います。

自殺と生きる目的

「自殺」なんていう重いテーマについて書こうとはこれっぽっちも考えたことがなかったのですが、今少し悩んでいます。

保守主義に賛成していながら時に「悩み事の大半は大金を貰えれば忘れる程度のものだ」というマルキストのような考え方をしてしまう僕ですが、最近知人が大病を患ったり命を失うということが続き、少し感傷的な気分になっていました。何のために生きるのかということを考える日々でもありました。

 

そんな折に、気になるブログを見つけました。引用の仕方がわからず困っているのですが、上手く貼れるかな。

http://grshb.hatenablog.com/entry/20140510/1399711443

 

タイトル、「自殺する人は弱い」。

かなりセンセーショナルに書き出しましたね。まずタイトルに驚いた。だってそんなこと思っていても言っちゃダメというコンセンサスが社会にあるから、自殺などのテーマについてみんなできるだけ慎重な言葉遣いをしています。

 

筆者の主張としてはこんな感じ。自分の置かれる環境は運だけじゃなく自分の行動によっても決定されるんだから、最終的に自殺してしまう人は弱い。でも弱いことは悪いとは言ってないよ。強く生きようね。

 

僕としては彼の考え方も1つアリだと思っているし、世間ではこのような考え方の人が一定数いると思ってます。しかし僕が思ったのは、「自殺するのって自分が追い込まれた時だけじゃない」ということ。僕の周りでも数人自殺(or未遂)した人がいるけど、家族にお金を残す意図(自殺だと生命保険が降りないという噂も聞いたことがありますが...)、イジメ、失業による絶望etc...といったところです。考えてみると、最近に限らず命を落としている知人は多かった。それらのどういった場合でも「この苦しみから解放されたい」といった考えとは限らないんじゃないでしょうか。

それから、「弱い」という言葉についての定義付けが甘いということも感じました。例として「逃げることが悪いことじゃないという意見に賛成」ということが書かれていたけど、ここで「逃げる=弱い」と定義してしまえば八方塞がりです。イジメだと仮定すれば、「戦う」ことも「先生に言う」ことも「将来ビッグになって見返す」ことも見方によってはいくらでも「弱い」と断定することができてしまうのです。

このような意見に対して彼は後日「何が弱くて何が強いかなんてのは個々人が勝手に決めるべきこと」と反論しているけれど、そんなこと言ったらわざわざカッコつけて大学の先生を真似たような文章で書いてる意味がないです。むしろ自分の思う強さ・弱さを定義してから組み立てれば、炎上するようなことにはならなかったんじゃないかななんて思っています(それを本人が望んでいたなら大きなお世話ですが)。

 

彼を批判していても仕方がないので、生命について思ったことを少し書きます。ここからは一般論ではなく、僕の感覚的な話です。

僕らが行動を起こす時には、2つの軸が必要だと思っています。それは目的と手段です。これをこの生死の問題に当てはめて考えた時に、「人は何のために生きて、何のためだったら死ねるのか」という疑問を持ちました。高校生の時に学年主任で国語の先生が「人間の生は自己目的的であって、生きているというそれ自体が奇跡なんだ」みたいなことを言っていました(これ以外に覚えている内容は孔子が2mを越す長身という話だけです。Y先生ごめんなさい)。

僕は少し違います。何かに命を懸けるのは違和感を感じるけれど、もしそんなものがあったら素敵だなとも思っています。つまり今は、喜んで命を懸けるべきものを探すために生きているという状態です。恋人の命の危機が迫っていたらきっと僕は自分の命を懸けて助けるだろうけれど、おそらくそんな自分を偽善的だと感じるでしょう。それは美談でしかないからです。小さい頃父は僕に対し「お前は自分の命より大切だ」と言い、これまでそれを実感することも何度かありました。そんな父を見てきた為か、自分が同じ立場に立たされた時、大切な人の命を守ることは義務だという意識があります。父にはそんな無茶はしてほしくはないですが。そんな事情のため、僕は立場上の「義務」を果たすだけでなく、喜んで死を選ぶような「権利」が欲しいのかもしれません。 

だから当分は死ねなさそうです。生きる目的・死ぬ目的を見つける前に死んじゃうかもしれないけれど、それはそれでいい人生だったと言えるような気もします。


デュルケームも読んだことがない僕が自殺を語るのは少し違和感があったので、政治哲学でも議題に上がる「生命尊重」をメインに僕の思いを書いておきました。これについてはもう少し掘り下げたいと思いますが、今日はこの辺で。

憲法における義務規定

正面切っての憲法改正議論が落ち着きを見せている中、僕の常識を否定する憲法理解を発見したので、それについて考えたいと思います。

 
それは、「国民の義務」という考え方。僕は憲法に義務規定を置くことが失当であると感じて生きてきました。なぜなら、憲法は国家権力を縛る法と学んだからです。ところが法学者である名古屋大学大屋雄裕教授(専門-法哲学)はそのような考えを「妄言俗説」であると否定しています。
 
それについて明確な論拠がイマイチ掴めないのですが、僕を含む義務規定反対派に対する1つの反論として、「他国の憲法には義務規定がないと言うけど、他国の憲法にだって義務規定はあるよ」という意見を述べていることはわかります。しかしこれについては、どちらの立場にいるとしても「他の国がこうだから〜」というのは説明として十分とは言えないでしょう。
ブログに対するコメントに彼が返信した内容を引用すると(かなり長くなります)、
 
>Gryphonさん
ども。そういやちゃんと書いてないんですが、きちんと書こうとするとちょっとステップ数が増えることに気付いたので(社会契約と実定憲法の違いと、しかしそれがエクスキューズにならないことを言わないといけないのですが、originalismの問題なんかがあるのでちょっと難しい)、とりあえず直感的な話として実例から挙げると日本国憲法26条2項(教育の義務)・27条1項(勤労の義務)・30条(納税の義務)というのがあるわけで、まあ「憲法に義務を書くのはおかしい」派の人たちが「だから日本国憲法を改正しよう」とまで断言したらちょっとは尊敬しますが実定的にはまず誤りですね。ちなみにドイツ連邦共和国基本法6条(2)(教育を受けさせる義務)、12a条(兵役義務と役務義務)、14条(2)(所有権には義務が伴う)というのもあるので日本だけが違うというわけでもないです。
英米仏という市民革命の先進国にはないと言い始める人がいるかもしれないのですがつまりここがキモであって、たとえばフランス人権宣言(1789)13条は租税の公平な分担を定めており。これは租税負担の義務があるという前提で考えないと意味がない。アメリカ合衆国憲法8節(1)は租税賦課の権限を連邦議会に認めており、これも反射的に国民の義務が発生すると考えないと無意味である。つまりどちらかというと国家の権限構成で書いている憲法と国民の義務構成で書いている憲法があるけれども、いずれにせよ憲法が国民の義務を規定するものでないとはまったく言えないと言うことになるでしょう。
なんでこういう違いがあるかという点については、ご指摘のように歴史的な問題として君主の絶対的な主権を前提にしてそれに制限を加えるという考え方で書いた時代と、新たに国家権力と人民の関係を取り決めるという感覚で書いた時代の差というものもあるだろうと思います。
私の考えではしかし、根本的な問題はそこで規定される義務が「国家」という存在を想定しない限り意味をなさないものか(eg. 国を愛する義務)、市民相互間の権利の反映として理解できるものか(eg. 国を裏切らない義務)という点にあります。前者を規定するのはおかしいという話なら理解できるのですが、義務をすべて一緒くたにして否定する発想というのは、実のところ国家というものを市民の合意を離れた実体として想定しているわけですから、国家に対する幻想の強化に貢献しているよな、と思うわけではあります。
ええと、最後の方がわかりにくいと思うのですがきっちり書く暇がないのでこのあたりでご勘弁。

 
とのこと。ふむ、やっぱりよくわからない。後半の義務を2つに大別するところがキモのような気がします。
ただ、市民相互間の権利を反映しての義務規定というのならば、現在まで議論されてきた憲法の私人間適用など全く不要とされるのではないでしょうか。その義務規定さえ存在すれば、わざわざ私人間適用を持ち出さずとも私人に憲法上の義務を負わせることができるわけです。しかしながらそうされなかった理由は、やはり憲法の「国家権力の抑制」という性質が関わってくるのではないかと思います。誰かに権利を認めるということは、排他性を与えるにせよ相手に義務を課すにせよ、不自由が生まれます。それをわざわざ義務規定として置くことにも必然性を感じません。
ともかく、本人も認めるほどわかりづらくなる解説を必要とする義務規定肯定論ですので、反対派を「妄言俗説」と切り捨てるのはいかがなものかとは思いますね。
 
僕の人生初のゼミは憲法学でした。その時の教授の思想にも大きく影響されている部分があるでしょうが、近代以降も受け継がれてきた「憲法が国家権力を抑制する」という立憲主義の本旨は十分尊重に値すると考えています。
しかし、現に日本国憲法に義務規定が置かれている以上それを所与として議論することも重要です。上記の意見は一法学部生が感覚的に書き連ねたに過ぎないものなので、反論や補足などが欲しいところです。
 

歴史に対するライバル視

個人的に最近思うことについて書いていこうと思います。


僕は人一倍負けず嫌いです。勉強も、スポーツも、楽器も、飲み会での酒の強さだって負けたくないと思っています。
そんな中で、どう足掻いても勝てない相手が歴史です。具体的に何で負けるということではないのですが、どんなに努力しても勝てない壁が歴史の中にあります。

10年前には僕は10代前半で、世間のことを何も知りませんでした。インターネットを見ていて、「最近世界的にシングルモルトがブームで品薄状態だ」という2005年の記事を発見しました。
そもそもこんなことは当時10代の僕が知っている必要はないものです。しかしだからこそ、子供という烙印を押された気分になりやるせないのです。
成人してから、恩師に勧められてウイスキーを飲み始めました。今のお酒についての知識は少しずつ身についてきています。しかし「当時のウイスキーはこんな味だった」という感覚は確実に味わえません。このことに強い劣等感を覚えます。

他にもビートルズの当時革新的なサウンドを聴いて「その時代に生きていても、自分にはこの音を創造できただろうか」と悔しく思ったりすることもしばしばです。

このような劣等感に打ち勝つために僕がしていることといえば、それは「同じ失敗を繰り返さない」ことです。歴史に学び歴史を超える。そのためにはまず、歴史を知る必要があります。そう考えると、どんな分野においても先人の歩んで来た道をなぞることは必要不可欠です。
そしていつの日か、どこかの世界で、オリジナルな何かを作り上げることで、歴史に打ち勝ったと考えることができるんじゃないかと思っています。
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バーの話

今日の北海道は各地で猛暑日を記録するなど大変な暑さでした。今年の夏はビールを美味しく飲めそうですね。


僕の趣味の1つにお酒を飲むことが挙げられます。とは言っても種類はほとんど知らないですし、飲むのは安酒ばかりです。
その中でもバーでウイスキーやカクテルを飲むのが1番好きなので、今日はバーの話をしようと思います。


僕の父はかなりの酒豪です。僕が幼い頃にはウイスキーを日本酒で割って飲んでいました。僕も友人には「酒強いね」と言われることはありますが、父には及びません。
そんな父ですが、バーには全く行きません。彼曰く「酒はスーツを着て飲みたいものじゃない」とのこと。これは多くの人がバーに持っている「敷居が高い」イメージの極端なものだと思います。
実際そんなことはなくて、僕もジーンズにシャツのような格好でお邪魔することが多いんです。さすがにタンクトップとかジャージとかは浮いてしまう気がしますが。

服装はいいとしても、「なにか落ち着かない...」「バーではどんな話をすればいいんだろう」という声もよく聞きます。これについても、普段通りの会話でいいのだと思います。アルバイトでバーマンをしたことがある身としては、他のお客様に迷惑をかけないことを意識してもらえれば十分です。アルコールが入ってしまうので、お客様同士の口論も避けたいですね。

注文はさらに簡単です。好きなお酒を言うのもいいですし、「さっぱりしたもの」「アルコールをしっかり感じるもの」のように漠然と伝えてもバーマンは美味しいカクテルを作ってくれます。そのような時は苦手なお酒を伝えた方がいいかもしれませんね。もちろんカクテルの名前やそのカクテルに似たものというような注文もOKです。
僕も馴染みのバーでは、1杯目にジンベースのカクテル・2杯目に気分に合いそうなウイスキーというあやふやな注文をすることが多いです。それでも好みを覚えてくれて、美味しいお酒を出してもらえます。

お会計についても一応書いておきましょう。オーセンティックなバーはやはりそんなに安くはありません。チャージ代(席料)が1000円、カクテル1杯1000円くらいです。
ですので、5000円くらい持っていれば足りるといったところです。先程も書きましたが、バーでは他のお客様に迷惑をかけないことが大切です。泥酔したり酔って大声で騒いだりということを防ぐために、2〜3杯で切り上げるのがスマートだと思います。


友人に質問されたことを思い出しながら書いてみました。確かに敷居が高そうなバーですが、バーマンはお客様を差別しません。自分なりに楽しみ方を見つけるのも素敵かなと思います。