ヤジの一件を受けてのつぶやき
国際大会に見る、感動と同調圧力
government of the people
自殺と生きる目的
「自殺」なんていう重いテーマについて書こうとはこれっぽっちも考えたことがなかったのですが、今少し悩んでいます。
保守主義に賛成していながら時に「悩み事の大半は大金を貰えれば忘れる程度のものだ」というマルキストのような考え方をしてしまう僕ですが、最近知人が大病を患ったり命を失うということが続き、少し感傷的な気分になっていました。何のために生きるのかということを考える日々でもありました。
そんな折に、気になるブログを見つけました。引用の仕方がわからず困っているのですが、上手く貼れるかな。
http://grshb.hatenablog.com/entry/20140510/1399711443
タイトル、「自殺する人は弱い」。
かなりセンセーショナルに書き出しましたね。まずタイトルに驚いた。だってそんなこと思っていても言っちゃダメというコンセンサスが社会にあるから、自殺などのテーマについてみんなできるだけ慎重な言葉遣いをしています。
筆者の主張としてはこんな感じ。自分の置かれる環境は運だけじゃなく自分の行動によっても決定されるんだから、最終的に自殺してしまう人は弱い。でも弱いことは悪いとは言ってないよ。強く生きようね。
僕としては彼の考え方も1つアリだと思っているし、世間ではこのような考え方の人が一定数いると思ってます。しかし僕が思ったのは、「自殺するのって自分が追い込まれた時だけじゃない」ということ。僕の周りでも数人自殺(or未遂)した人がいるけど、家族にお金を残す意図(自殺だと生命保険が降りないという噂も聞いたことがありますが...)、イジメ、失業による絶望etc...といったところです。考えてみると、最近に限らず命を落としている知人は多かった。それらのどういった場合でも「この苦しみから解放されたい」といった考えとは限らないんじゃないでしょうか。
それから、「弱い」という言葉についての定義付けが甘いということも感じました。例として「逃げることが悪いことじゃないという意見に賛成」ということが書かれていたけど、ここで「逃げる=弱い」と定義してしまえば八方塞がりです。イジメだと仮定すれば、「戦う」ことも「先生に言う」ことも「将来ビッグになって見返す」ことも見方によってはいくらでも「弱い」と断定することができてしまうのです。
このような意見に対して彼は後日「何が弱くて何が強いかなんてのは個々人が勝手に決めるべきこと」と反論しているけれど、そんなこと言ったらわざわざカッコつけて大学の先生を真似たような文章で書いてる意味がないです。むしろ自分の思う強さ・弱さを定義してから組み立てれば、炎上するようなことにはならなかったんじゃないかななんて思っています(それを本人が望んでいたなら大きなお世話ですが)。
彼を批判していても仕方がないので、生命について思ったことを少し書きます。ここからは一般論ではなく、僕の感覚的な話です。
僕らが行動を起こす時には、2つの軸が必要だと思っています。それは目的と手段です。これをこの生死の問題に当てはめて考えた時に、「人は何のために生きて、何のためだったら死ねるのか」という疑問を持ちました。高校生の時に学年主任で国語の先生が「人間の生は自己目的的であって、生きているというそれ自体が奇跡なんだ」みたいなことを言っていました(これ以外に覚えている内容は孔子が2mを越す長身という話だけです。Y先生ごめんなさい)。
僕は少し違います。何かに命を懸けるのは違和感を感じるけれど、もしそんなものがあったら素敵だなとも思っています。つまり今は、喜んで命を懸けるべきものを探すために生きているという状態です。恋人の命の危機が迫っていたらきっと僕は自分の命を懸けて助けるだろうけれど、おそらくそんな自分を偽善的だと感じるでしょう。それは美談でしかないからです。小さい頃父は僕に対し「お前は自分の命より大切だ」と言い、これまでそれを実感することも何度かありました。そんな父を見てきた為か、自分が同じ立場に立たされた時、大切な人の命を守ることは義務だという意識があります。父にはそんな無茶はしてほしくはないですが。そんな事情のため、僕は立場上の「義務」を果たすだけでなく、喜んで死を選ぶような「権利」が欲しいのかもしれません。
だから当分は死ねなさそうです。生きる目的・死ぬ目的を見つける前に死んじゃうかもしれないけれど、それはそれでいい人生だったと言えるような気もします。
デュルケームも読んだことがない僕が自殺を語るのは少し違和感があったので、政治哲学でも議題に上がる「生命尊重」をメインに僕の思いを書いておきました。これについてはもう少し掘り下げたいと思いますが、今日はこの辺で。
憲法における義務規定
正面切っての憲法改正議論が落ち着きを見せている中、僕の常識を否定する憲法理解を発見したので、それについて考えたいと思います。
ども。そういやちゃんと書いてないんですが、きちんと書こうとするとちょっとステップ数が増えることに気付いたので(社会契約と実定憲法の違いと、しかしそれがエクスキューズにならないことを言わないといけないのですが、originalismの問題なんかがあるのでちょっと難しい)、とりあえず直感的な話として実例から挙げると日本国憲法26条2項(教育の義務)・27条1項(勤労の義務)・30条(納税の義務)というのがあるわけで、まあ「憲法に義務を書くのはおかしい」派の人たちが「だから日本国憲法を改正しよう」とまで断言したらちょっとは尊敬しますが実定的にはまず誤りですね。ちなみにドイツ連邦共和国基本法6条(2)(教育を受けさせる義務)、12a条(兵役義務と役務義務)、14条(2)(所有権には義務が伴う)というのもあるので日本だけが違うというわけでもないです。
英米仏という市民革命の先進国にはないと言い始める人がいるかもしれないのですがつまりここがキモであって、たとえばフランス人権宣言(1789)13条は租税の公平な分担を定めており。これは租税負担の義務があるという前提で考えないと意味がない。アメリカ合衆国憲法8節(1)は租税賦課の権限を連邦議会に認めており、これも反射的に国民の義務が発生すると考えないと無意味である。つまりどちらかというと国家の権限構成で書いている憲法と国民の義務構成で書いている憲法があるけれども、いずれにせよ憲法が国民の義務を規定するものでないとはまったく言えないと言うことになるでしょう。
なんでこういう違いがあるかという点については、ご指摘のように歴史的な問題として君主の絶対的な主権を前提にしてそれに制限を加えるという考え方で書いた時代と、新たに国家権力と人民の関係を取り決めるという感覚で書いた時代の差というものもあるだろうと思います。
私の考えではしかし、根本的な問題はそこで規定される義務が「国家」という存在を想定しない限り意味をなさないものか(eg. 国を愛する義務)、市民相互間の権利の反映として理解できるものか(eg. 国を裏切らない義務)という点にあります。前者を規定するのはおかしいという話なら理解できるのですが、義務をすべて一緒くたにして否定する発想というのは、実のところ国家というものを市民の合意を離れた実体として想定しているわけですから、国家に対する幻想の強化に貢献しているよな、と思うわけではあります。
ええと、最後の方がわかりにくいと思うのですがきっちり書く暇がないのでこのあたりでご勘弁。